「建築は、大工、とび、土方と分かれているんです。
仕事を覚えたくて、どの現場にも一番に行って手伝っていたから皆にかわいがってもらってね、楽しくて仕方なかった」
恩師の強い勧めもあり、反対していた父親も折れて法政大学建築科へ。
46人の同級生ではただ一人の進学だった、建築については高校でしっかり学んでいたため、すぐに空手部に入り厳しい練習に明けくれる。
「雨の日は練習をやめて映画や麻雀にいく部員が多い中、私は雨でも鍛えろという先輩に徹底的にしごかれた。当時は何て嫌な奴だと思っていました(笑)。経営にもつながることですが、楽な方へ逃げてしまったら必ず差が出てくる。空手も、全日本クラスの同級生を追い越して、大学から始めた私が大学一になったんです」
大学卒業後すぐに杉本組に入社。
初めは風呂や台所の改装など小さな仕事しか取れず悩んだ。
しかし昭和44年、一念発起して自社ビルを中区金山に造ると、実力が認められ、立て続けにビルの建設依頼が舞い込むように。
杉本組の建造物には都市景観賞などの受賞が多い。
さらに特微的なのは、築1・2・5・10年の自社建築物の定期点検を無料で行っている点である。
建物は時間とともに老朽が進み、点検ではお客様に怒られることが殆ど。
しかしお客様との関係作りには大いに役立つのだという。
「建築も経営も人間が行うもの。お客様の信頼を得ること、そのためにも人問性豊かな社員の育成こそが、わが社の目標なのです」
7年前に知子夫人を病気で亡くし、自身も42歳で上顎表皮ガンに侵され、上顎を全て摘出しセラミックに。2年間の壮絶な闘病生活を送るが、発声訓練も見事克服、体力面ではゴルフに集中しハンディは6。
資本金2億円、従業員数80人。
中ロータリークラブ会長をこの6月まで務める。 |